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チーフトレーナー小川洋司が選んだラグビーの道【前編】

2024年4月12日

中国電力に入社して5年が経ったころ、23歳の小川洋司は大きな決断をした。このまま仕事の道を歩むか、それともラグビーの道に進むか。選ぶ道が正解かどうかはわからない。だが、「どういうふうに生きていくか」と考えたとき、「人と違う人生を歩んでもいい」と思えた。そうしてラグビーの道へと踏み出した。

小川がラグビーを始めたのは16歳のとき。地元の尾道から福山の高校に通ってラグビーに打ち込み、中国電力に入社後も福山の街クラブでプレーを続けた。ときには、中国電力のラグビー同好会と福山近郊の駅家町にあったクラブを含む3チームを掛け持ちしていた時期もあった。

仕事で電柱に登り、プライベートでラグビーをする日々だった。小川は「何かしんどいことをしたかったのかもしれないです」と笑いながら思い返す。当時は「若さ」というあり余るパワーをラグビーにぶつけていた。「思いっきり声を出して、思いっきり汗をかいて。そのころのラグビーはそんな感じだったので、それが発散になっていましたね」

世羅町の甲山にあった営業所で勤務していたときに転機が訪れた。中国電力のラグビー部が発足する際、“恩師”と慕う隅川通治氏(現アドプレックス社長)の誘いを受けて、23歳で社員選手の道を選んだ。それからは広島市近郊の職場を転々としつつ、仕事とラグビーを両立する生活を送った。

中国電力のラグビー部は1987年に創設され、小川は2代目のキャプテンを務めた。創設当初はまだチームとしてまとまりがなく、難しい時期でもあったという。「遊びたい人としっかりやりたい人が混在していて過渡期でした」と振り返る。

いまのような専用のグラウンドやトレーニング施設はなく、市内の高校のグラウンドや公園などを使って練習していたという。環境は決して整っておらず、仕事との両立もしながらラグビーに励んできた。そんな限られた時間や環境だったからこそ学んだこともあった。

「『できることをやる』ということを隅川さんから学びました。発足当時は何も知らない中でもやらないといないっていう手探りの状況でしたけど、そこで『自分のできるベストを尽くせ』と言われて。それはラグビーでも仕事でも同じですし、いまでも心がけています」キャプテンになってすぐに大ケガをしてしまい、チームで初めて手術を受けたこともある。「今なら対応も整っているけど、当時はてんやわんやでしたね。愛媛での試合でケガをして『すぐに帰ろう』ってなって、駅の階段で隅川さんにおんぶしてもらったのを覚えています」と笑う。今となってはいい思い出だ。

このケガの影響に加え、本格的に選手の補強が始まったタイミングでもあり、チームを後輩たちに託して選手引退を決断。選手時代に自ら体のケアをしていた経験を活かしてトレーナーとしてチームを支える役にまわった。当時はチームに専門家もおらず、自身も知識が少なかったため、「いろんなドクターやトレーナーの方々に来てもらって教えていただいていました」と勉強の日々だった。

トレーナーとして自身も一緒に成長しながら選手たちを見守ってきた。多くの選手たちと接してきた経験を経て、特にコミュニケーションの取り方には気をつけているという。「選手がケガをしたあとや気持ちがナイーブなときは、最初にかける言葉に気をつけています。心に一生残るかもしれないので、マイナスになるようなことは絶対に言わないようにしています。以前、選手に声をかけとけばと後悔したことがあって、そのときから一人で考え込ませないようにコミュニケーションを取るようにしています」ラグビーの道を歩んで約40年。さまざまな人と出会ってきた。そんな人とのつながりが、小川のキャリアをつないできた。

「いろんな人を知れたし、いろんなつながりがあしました。いまも若い選手たちと話ができるのは刺激ですし、ドクターや理学療法士の方々にはいろいろ教えてもらって、そういう人たちとつながりを持てたのは面白いですね」2024年3月に60歳になり定年退職を迎えたいま、23歳で下した大きな決断を振り返る。

「もちろん仕事の道を選んでも何かあったとは思うけど、ラグビーを選んだからいまもこうやってチームとかかわれている。会社の人生もラグビーの人生も経験できて、普通の社会人だったら絶対ないことを経験させていただいた。面白い人生だし、感謝しかないです」

人とのつながりを楽しみ、自分ができるベストを尽くしてきた。中国電力のラグビーの歴史とともに歩んできた小川のキャリアが物語っている。正解の道を選ぶかどうかではなく、選んだ道を正解にしていくのだと。

ミナトコウタ

 

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